馴染まぬ空

旅ブログなのだから旅の記録を記載するのが筋というものだろう。
しかしこのご時世では難しいのは自明の理だ。移動するというだけでご法度のような扱いを受けるこの時代に
なんとも時代に逆行している行動といえよう。

とはいうものの電車は動いているし、飛行機も飛んでいる。どこに行こうとも交通機関を用いれば国内であればどこにも行けるのである。

鬱々とした毎日を過ごしている私には計画を立てることもできず、ただただ電車に乗るしかできずにいた。
電車に乗りさえすればどこへでも連れて行ってくれるのだ。
日本の鉄道は優秀だ、時間通りに電車は到着するし多少乱れたところでストライキが起こって止まるなどということもない。

計画を立てて出かけようとするとその前日から、くさくさと心が毛羽立つような尻の座りの悪いような気分になる。家を出るまで憂鬱なのだ。いや移動中も憂鬱かもしれない、私は旅の一体どこで気分が高揚するのか、そもそもそんなことがあるのか。

目的もなく乗ったはずの電車だったが、気づけば空港へ向かっていた。
無論フライトの予約などしていない。当然このご時世で旅行しようなどとは正気の沙汰ではない。
しかし、辿り着いてしまったのだから行くしかない。これは何かの儀式なのかもしれないあるいは、試練か。
私の無意識下の何かに従い空港駅に降り立つ。そのまま空港へとつながるエントランスを通り、明るくひらけた出発ロビーに着いた。

私は動揺した。
何かわからぬ興奮するような、高ぶるような気分。
ジワジワとくる旅立ちへの高揚感が飛行機の出発案内板を見ると一気に膨れ上がってきた。
出発案内板には、福岡、札幌、大阪、鹿児島、沖縄…と数々の行き先が表示されている。
ああ、あの便に飛び乗ればそのまま沖縄に辿り着くのか。妙な気持ちになった。

ここにくれば行き先が決まっていなくとも、明確に示してくれる。これは電車では感じられないものかもしれない。いや正確には、電車にも行き先案内板はあって、隣県が目的地になっていることもあるし、新幹線ならばかなりの遠方にまでいける。
しかし、飛行機には途中下車などない。とびたった次に降り立つのは目的地の空港で、それは地続きの電車にはないワープする感じとでもいうのかそのようなものを感じられる。
それが、出発案内板を見ているときに高揚してくる理由なのか。
私の中に起こった今までは気づきもしようとしなかった感情。

私は旅がしたかったのか。

驚きと、気恥ずかしさが、私の中にめぐる。
一人出発案内板を見て高揚しているということを誰かに悟られてはいまいかと、足早にその前を去る。
誰が見ているわけでもないのに

気恥ずかしさを抱えたまま空港を後にする。
轟音を響かせながら飛び立つセスナ機を尻目に、空港のターミナルは長く長く伸びている。
冷たい風を背に受けながら、日差しの強さを感じていた。